JOJO3部のラストについて
ふとJOJO3部のラストを思い出した。
ジョジョ読んだこと無いひとにはスイマセンが、まぁただの感想です。
結局なぜ承太郎が勝ったのか、直接的な説明、描写は無いといっていい、ということについて。
(DIOの蹴りと承太郎の突きの場面ね)
一見説明とも取れる、「テメーは俺を怒らせた」というセリフはつまり
この戦いは家族愛や友情のためだったということを言っているだけでしょう。
そのままの意味でとっちゃうと、怒りがもっとも強い力だ!と言ってるだけの変な人になってしまうしね。
とにかく、その家族愛や友情を、「正義」と仮に置き換えると、
なぜその正義が絶対的な悪に打ち勝ったか、という疑問が発生するが、
それに対する解答が理論的に描かれていない。
3部は簡単にいえばつまり、単純な勧善懲悪の物語といっても差し支えないわけで
敵は己の欲望のためだけに行動し、主人公は正義のために戦っている。
だからといって単純に「正義が勝つ」なんて事をやったら読者は誰も納得しない。
はずなのに、3部のラストでは確実にそういう事をやっている。
戦闘の最中に死んだ仲間の顔が思い浮かび、力を分けてくれるなんていうことも起こらない。
ただ勝った。でも読者は(少なくとも自分は)納得できている。
なぜか?
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個人的には、このラストシーンは
承太郎というキャラクターのカリスマ性を引き出すためのもの
だったのかなぁとおもいます。
少年誌で圧倒的に多い物語は「主人公の成長を描く」ものだと思いますが
その役はポルナレフや花京院にまかせて、
承太郎は最初から精神的に「最強」の立場として描かれています。それこそ5歳のときから。
承太郎が勝つのは最初から決まっているし、読者も知っている。
ただし、これは承太郎が最強じゃなかったとしても決まっている。主人公だから。
ただ普通は、
「主人公はなんらかの欠点を抱えているが、成長を経て最終的に悪に打ち勝つ」
というのがセオリー。その成長過程が面白さになり、そして悪に打ち勝つ力(=勝因)を得る。
しかし承太郎には欠点が無い。(能力的にでなく精神的に)
つまり強いから強いと。説明のしようが無いと。
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結局のところコレといった納得できる理由は見つからなかった。
このままでは力が力を支配する、そういう話になってしまう。
承太郎と同じかそれ以上にDIOというキャラもカリスマ性を帯びている事実もある。
ただ、これが漫画というものの長所であり短所ではないか?と自分は思うのです。
物語としての整合性とか、人間の行動原理を追求するのでなく
…キャラクターがとにかく「カッコよく」決めてくれれば、少々の不整合や矛盾などがあっても問題ない。
いいかえれば「なにを犠牲にしてもとにかくキャラクターの魅力が第一である」ということこそが
漫画というメディアの特徴ではないかなとおもうのです。
以上
うまくまとまったような、グダグダで終わったような…
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余談ですが、
SBRの主人公ジョニィはまさに成長過程にあるキャラですね。。
(たまに主人公はジャイロだっていう人いるんですけど、
個人的にはジャイロは主人公ではないと思っています。というか確実です。
本編でジョニィが言ってるじゃん、「この物語は僕が歩き出す物語だ」って。。)
大ボスは誰でしょう?筆頭はDIOですがなんか変なことになってるし。
DIOをのぞけば、妥当な所では大統領ですか。ただあのルックスではラスボスにはなれないね。2回くらい変身しないと。
ルックスでいえば、ツェペリの親父がかなり怪しいと俺ははにらんでいる。プッチ神父ばりの狂気のもみ上げ。
2006年02月24日 10:49
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